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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)

●9月第2次予備攻撃について

9月19日から22日にかけての第三軍の攻勢は、すでに制圧した地域周辺の安定化、203高地の攻略を目的としていた。
第1次総攻撃で空前の被害を出したため、
「塹壕を用いた攻撃」を新しく試すこと、
次の総攻撃の足がかりを得ることが主眼の作戦であったと考えられる。

この時点では28サンチ砲は届いておらず、兵力弾薬の補充も十分ではなかったため、
いわば、もともと「手持ちでできることをする」という性質の作戦であったといえる。

被害総数も80%以上減少している。
これは塹壕の効果とともに、本作戦自体が無理押しするものではなかったことの証左であろう。

しばしば、この予備攻撃についても、
「失敗を重ねた」「目標未達」として記述されることがある、実態には沿ってない評価に思われる。

なおロシア側では、これが第2次総攻撃と認識されている。

 

●203高地の防御力について

203高地は実際にどの程度の防御力があったのか。

大本営参謀次長の長岡外史は、後に「防御の手薄な203高地をもっと早くに落としていればもっと手っ取り早かったのに」と回想しており、また公刊戦史にも当初は「中腹に散兵壕があるのみ」で、第1次攻撃開始後に防御が整えられた。と記述されている。この記述をもとに、『坂の上の雲』でも、手薄な203高地を早期に攻略しない第3軍司令部を非難している。しかも、第2次予備攻撃で中途半端に攻撃をしたせいで、敵にこの地の戦略的重要性を知らしめ、その後防備に着手させた、という尾ひれまでつく。

実際のところは、ロシア軍による203高地の防御は旅順を包囲する以前の南山の闘い(第2軍)の時点から始まっている。また公刊戦史の第1次攻撃後という記述を採ったとしても、第2次攻撃の半端な攻撃のせい、というのは当たらない。第1次攻撃で大頂子山が制圧されたのに伴い自然と防衛体制を敷いたと見るほうが無難であろう。第3軍司令部の認識については、第1次総攻撃、第2次予備攻撃の時点で203高地の防御力は高く、少なくとも第三軍の12サンチ砲で破壊できるものではなかったという複数の参謀の証言が残されている。

第2次予備攻撃における203高地への攻撃も6度以上にわたり行われており、決して中途半端に攻撃したというわけでもなさそうだ。

「ああ。こうすればいいのに!」「なんで気がつかないんだ!」

という構図は、作劇としては面白い構図であり、当時の大本営にいた関係者の様々なもどかしい想いを集めれば容易に組み立てられる構図でもあるれども、多くの現地関係者が知恵を振り絞っている現実においては、「気の利いた打開策」と「それに気がつかない無能もの」を見いだすのは、後知恵という補正を得ても容易ではないように思われる。

 

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