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誤算編 1




















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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。





【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)





●南山の戦い

1904年5月25日。
遼東半島の先端付近、南山およびその近郊の金州の攻略戦。
日本軍は先の5月15日に、旅順―遼陽・奉天間の鉄道を爆破し、両拠点の分断に成功しているが、
最大幅3.5kmの遼東半島の「くびれ」に位置する南山を攻略することで、
旅順の包囲をさらに完全にすることができる。

また旅順付近の港、大連を確保することも作戦目標であった。

日本軍は3個師団3.8万人、ロシア軍は1.7万人でこれを迎え撃った。


南山は要塞化されており、鉄条網と地雷原100門以上の野砲、10丁のマキシム機関砲で防御された。
日本軍は十分な重砲を持っておらず苦戦を強いられた。

戦闘自体は2日のうちに終わり、日本軍の戦略目標が達成されたが、
日本軍は、半個師団4千人から6千人の死傷者を出す。2日間の戦闘としては空前絶後の被害であり、
大本営が「桁が一つ違うのではないか」という確認の返信をよこしたという逸話もある。
この戦闘を、日露戦争でただ一つの敗北とする見方もある。
他方、ロシア軍もまた千人〜2千人の被害を出しており、損耗率は同じぐらい。

また砲弾の消費量も激しく、計画を大幅に上回る3万発以上消費されたという。
厳しく言えば日本軍の戦争計画の甘さ、
引いた視点でいえば新しい時代の戦闘像の変化を示すデータであるが、
どっちにせよ日本軍はこの後、慢性的な砲弾不足に悩まされ続けることになる。

この攻略戦を担当した第2軍、奥 保鞏(おく やすかた)は、
自軍の重砲が少ないことを理由に早期の南山攻略戦に難色を示している。
大本営は、その懸念を容れず早期の南山攻略を命令する。その結果、上記の悲劇が生まれる。
重砲を待てば、重砲を待たずとも時間をとって塹壕戦を展開していれば結果は大きく異なっただろうという指摘もある。

慎重論、正攻法を唱える現場司令官に対して、早期の成果を求める大本営が果敢な攻撃を求める悲劇は
旅順でも繰り返されることになる。


重砲は、先に九連城を攻撃した第1軍に重点的に配備されており、
都市師団を中心とする同軍団は、強襲より消耗戦向けのものであったようだ。


なお、日清戦争のときには南山は要塞化されておらず1日、戦死者1人で金州城は攻略されている。
司馬は、この経験が日露戦争における南山の戦いの苦戦につながったとしているが、
このような経験を対ロシア戦の参考にしたのかどうか異論もある。


…って、見方がある、とか指摘がある、とか、異論がある、とかほとんど一つのソースですね…。

●機関砲

南山の戦争で大きな役割を果たした兵器が機関砲であるといわれる。
ロシア側はマキシムPM1905重機関銃を10丁以上配備していた。

絶え間なく射撃を続ける機関砲は、速射性能と射程距離のあがった小銃と合わせ
「撃っては近づき、撃っては近づき」だった、これまでの戦場の姿を大きく変えることになる。

無理な突撃は、大量の死傷者を生むことになる。

これに対抗するには塹壕戦の展開が有効であるとされ、
実際に第1次世界大戦は壮大な塹壕戦となった。
つまりは、防衛線における機関砲の運用は戦場の膠着を生むこととなった。

あてずっぽだけど、この膠着状態の打破の必要性が後の戦車を生んだ、といってもいいのかな?
(現代では、戦車は戦車戦でしか有効じゃないって聞いたこともある。)

その意味では、南山の戦いは、機関砲の本格的な実戦配備という点で
20世紀戦史の画期をなす戦いといえるだろう。

日本軍はこれを気合いで突撃することで急場をしのぐ。
その成功体験が後の悲劇となったとする指摘は多い。

『坂の上の雲』では、この南山の戦いまで「日本軍は機関砲を知らなかった」という風に記述している。
同時に、主人公の秋山騎兵旅団のみが10丁(6丁)ばかりの機関砲を以って
、よく戦線を支えたということで主人公の先見の明を際立たせている。

しかし、日露戦争全体で、日本軍も100丁以上の機関砲を配備したこと、
それは、水を運ぶ必要のある水冷式マキシム機関砲より優れた空冷式ホッチキス社の機関砲であり、
機関砲の欠点である弾づまりも起こりにくい優れた機種であったということから、
日本軍が機関砲を知らなかったというのはウソだろw、
という指摘もある。小説では、南山後に、あるいは秋山騎兵の活躍を見て、全体で増やしていくみたいな書き方だったが。

しかし、50kgもあり、4人で運ばないといけないような機関砲を、
野戦でどう活用したらいいのかの運用の方法や思想が確立していなかった、
時代を変えるほどの兵器であったという評価はできていなかった、
特に防衛戦でうまく運用すればここまで威力があるとは想定外だったこと、
はなどは言ってもよいのではないかとおもう。

現代でもそうだが、兵器は使ってみるまで、どういう運用が有効かとか実際の威力とかがわからないものらしい。


秋山は、おそらく騎兵の弱点を補うのに適した兵器として機関砲に着眼していたのだと思われる。
「秋山神話」(当初は秋山だけが機関砲持っていた)がもし本当だとすれば、
弱兵こそが進化する、の好例といえるだろう。


●奥 保鞏

第2軍司令官。
小倉出身。珍しく薩長藩閥に属さない司令官で、藩閥外ではじめて元帥になった人。

「4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。」

といわれる能力の持ち主である。

同軍団に所属する秋山の騎兵旅団構想を認めたのも、この奥だったとかなんとか。

第1軍の黒木が勇猛果敢に動いたのに対し、第2軍の奥は慎重で消極的であったとさえいわれる。
ただ、それは将官の性格だけではなく、
両軍の任務(正面の敵)、および師団(地方師団と都市師団)、兵器の質の差を
考慮にいれて評価すべきことであろう。

人格はおとなしく、日露戦争後、児玉の死後参謀総長(1906−1912)をつとめたが、
政治に興味を示すことがなかった、といわれている。
昭和まで生き、ひっそりと亡くなった。
日露戦争凱旋のさいに、「済まぬ、許してくれ」、とつぶやいたという逸話も残っている


●ラッパ手

戦争映画などで、突撃の差異にラッパが鳴るのを聞いたことがある人も多いと思う。
「あれ、なんの意味があるのかな?」
とぼんやり思っていたけど、戦場で鳴らすラッパには、
一般的な士気高揚、鼓舞というだけではなく、
敵の恐怖心をあおり、敵に射撃の「フライング」をさせる目標があるらしい。

火縄銃の時代と変わらない戦闘の姿として、敵の防衛戦を突破するには、
銃を撃って次にまた銃を撃つまでどれだけ敵に接近できるかというのが勝敗の要となる。

小銃の性能が飛躍的に上がった明治期には、
一定の死傷率を覚悟で前進していくわけだが(だからたくさん人が死ぬ)

ラッパ音で耳の感覚を狂わし、恐怖をあおり、少しでも敵に早く打ってもらえれば、
つまり有効射程距離外で弾を撃ってもらえれば、
それだけ敵接近までに浴びる弾の数は少なくなる。

同様の理由で、19世紀までの歩兵が変てこなでっけえ帽子をかぶっているのは(今でも衛兵に見られるようなの)
敵にとっての遠近感を狂わし、近くに見せることで、射撃の「フライング」を誘うためのものだという。

単なる「かぶき」じゃなかったのか。

小銃の性能の発展と機関砲の登場がこれらの操典の常識を変えることになる。
繰り返しになるが、日露戦争はその転機となった戦争だといえる。

というか、この時代の兵隊って本当にいやな仕事だなと思う。


なお、日本では「死んでもラッパを離しませんでした」という逸話が有名である。
戦場で撃たれても、ラッパを吹き続けたラッパ手の勇敢さをたたえるものである。
戦前の小学校の教科書では必ず掲載されていて、そのラッパ手、「木口小平」は皆知っているというほど。

私も小学校時代、尋常小学校の国語の教科書に、
「サクラサイタ」と同じように「シンデモ ラッパヲ ハナシマセンデシタ」の文章が
挿絵つきで載っていたのを見た。

「死」というものが、これほどにあっけなく、淡々と教科書に載っていることが衝撃だったし、
また子供らしく、そのラッパ手の勇敢さに、いいようのない思い、たぶん感動を覚えたと記憶している。

ラッパ手の話は、なぜだか日露戦争、それもこの南山の戦いのものと思い込んでいたが、今調べてみると
どうも日清戦争の逸話をもとに、つくられていった話のようですね。

そのモデルは当初、日清戦争開戦前の小競り合いでで亡くなった白神源次郎とされた。
しかし、彼の死因が溺死であり、撃たれてなおラッパをという場面はありえないため、
後に同日に戦死したラッパ手「木口小平」がその英雄であると訂正される。
しかし、彼も心臓を撃ち抜かれてなくなっているため、「死んでも息を絶え絶えにラッパを吹き続ける」ということは考えにくい、
という批判もある。

もともとの経緯からして
軍歌か何かで歌われた「逸話」が話題となり、
それにあうような実例(うわさの根拠)を探してきたという「お話」「神話」であり、
戦意高揚のために「つくられた美談」であるようだ。

ネット情報だから鵜呑みにもすべきじゃないだろうけど、ちょっとびっくりした。わしの感動は一体…?

あと、軍神「爆弾三勇士」も、この南山の戦いと思い込んでいたけど、
爆弾三勇士も、このずっとあと、昭和の上海事変で生み出された逸話でした。
誤解していてすいません。

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