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断点編3

















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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。





【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)




●三国干渉


日清戦争後、下関条約で清国から獲得した旅順などの要地について、
ロシア、ドイツ、フランスが三国で返せといってきた事件。

これら大国に逆らう国力はなく、日本は旅順を清国に返還する。
しかし、「アジアの平和」とかを大義名分にかえせと言ってきたのに、
日清戦争で「清国弱くね?」と列強が思うにいたり、
各国はこぞって清国の領地をぶんどりはじめる。マジ火事場泥棒。

旅順もいつのまにかロシアの要塞となった。

「なんじゃそりゃ!」
と憤った日本側は、「臥薪嘗胆」を流行語に、捲土重来を期す。
日露戦争の要因の一つに数えられる事件。

清国こそいい迷惑ではある。

●日清戦争における旅順戦


日本の攻撃に対し、1日かそこらで陥落した。
守備側の清国に兵員、防衛設備、兵器、何より士気が全然なかったといわれる。
このとき乗り込んだ部隊の長だかなにかをしていたのが、乃木希介(のぎまれすけ)。

これが後の不幸の種となる。

●べトン

コンクリートのこと。ロシア側は、これで要塞を固めた。

●旅順要塞と閉塞作戦

旅順はロシア側の海軍主力であった旅順艦隊の拠点であった。

日露戦争の開始直後、日本海軍は仁川港を急襲するとともに旅順港を水雷艇?で奇襲。
敵の出鼻をくじき、制海権を獲得した。
が、敵を完全に撃破できたわけではなく、海上輸送には不安が残され、
このため海軍はその後も旅順艦隊の監視のため、
旅順近辺に張り付かざるをえなくなった。
(あとウラジオストックにもいくつかの軍艦が残り破壊活動を展開された)

こうした状況を打破すべく、有名な閉塞作戦が展開されることになる。
これは狭い港の入り口に民間船を沈めて、港を使用不能にし、艦隊を閉じ込めるというもの。
(旅順港は干潮時の水位が非常に低かった)
九連城攻略の以前から、だいたい2−5月にかけて実施される(時期うろ覚え)。

いずれも失敗する。

なお このとき、当時日本海軍で閉塞作戦の権威であったのは秋山弟であった。





●要塞と艦隊の力関係


閉塞作戦に見られるように海軍が、戦力的には劣るはずの旅順艦隊が
軍港にひきこもっただけで四苦八苦せざるをえなかったのは、
当時の要塞と艦隊の力関係が背景にある。

一見、自在に動きまくれる移動砲台である艦隊のほうがが有利なようにも思えるが、
当時の(今もかもしれないけれども、)戦闘力は

要塞 >(越えられない壁)> 艦隊

であったらしい。なぜって

@要塞のほうがでっかい大砲がある、
A何より普段から「「その海域で」射撃訓練を行い即座に精密射撃(艦隊比)が行える

これに対し、艦隊は
@波に揺られながら、
Aしかも着弾点を計測しながら調整ながら
戦わなければならない。撃ち合いで話にならなかったようだ。

だから旅順艦隊に要塞の射程距離内に逃げられると日本海軍としては手も足もでない。
閉塞作戦という自滅覚悟の苦肉の作戦を選択することになるのはこのため。

なお、『坂の上の雲』では、艦隊司令、東郷は閉塞作戦に最後まで難渋を示したとされる。真偽不明。



●旅順要塞に関する認識

『坂の上の雲』では、対露作戦計画にあたった川上、田村、児玉、のいずれの作戦要綱にも「旅順攻略」はなかったという。
また、児玉は「旅順には竹矢来でも置いとけばいい」とかいって、実際に必要な竹の数をその場で計算してみせ、笑いをとった、ともされる。

これらのエピソードから、陸軍は旅順を軽視していたといわれるし、
山城陣地に毛の生えたようなもの、程度の認識しかなかったと非難されている。

しかし、同じ小説の中では秋山(兄)が事前に旅順を視察したエピソードが紹介されており(真偽不明だけど)、
また、「失敗」といわれる第1回攻撃も入念な「包囲網の前進」といえなくもない。
また旅順の前哨戦にあたる金山攻略ですでに大きな被害を出しており、
いくら情報軽視の悪名高い「陸軍」といっても、そこまで情報に疎く、呑気であったとはちょっと考えにくい。


近代要塞の堅牢さについては世界的にも十分に理解されておらず、
8月中に攻略といった乃木をはじめ陸軍に早期陥落の甘い見通しがあったのは事実だが、
第一回総攻撃後に直ちに28サンチ砲が用意され、現地に輸送された経緯から考えても
少なくとも当事者の一部には、それなりの長期戦の覚悟はあったものと思われる。

陸軍の参謀本部が当初、旅順攻撃を想定していなかったというのは、
その戦術的に容易だとみていたとか戦略的意味を軽視していたからというよりは、
むしろその戦術的困難と戦略的ロスをある程度予想していたからだというのは、
それほど無理のない仮説であるように思われる。


●旅順をめぐる陸海軍の綱引き

実際に戦争がはじまり制海権確保における旅順攻略の戦略的価値が明らかになるにつれ、
陸軍から旅順攻略を海軍に申し出るようになる。
海軍は、閉塞作戦の自信か、縄張り意識からかわからないけど、
この申し出を断ったらしい。陸海の対立、よくある話ですね。

陸軍からこのような申し出がなされたのは、
そもそも軍内でも旅順を落としたい(その防衛力を軽視する)という意見があったからかもしれないが、
あるいは、その防衛力をある程度は知っていたからこそ、海軍の陸戦隊にはまかせられず「協力」を申し出たからかもしれない。
どっちなんでしょう。

いずれにせよ、閉塞作戦の失敗後、海軍から陸軍に旅順攻撃が依頼されるようになる。


●28サンチ榴弾砲


ごっつい大砲。

旅順攻略の要となる。
大口径でコンクリ(べトン)を打ち破ることも、榴弾で着弾点付近をを地獄にすることも。
最大射程は7.6km。

もともと海防のため砲台に据え付けられていた。
なんで日本は海防にそんなにごつい大砲を備えていたのかというと、上記の要塞vs艦隊の戦術的事情のほか、「陸軍の法皇」山縣が、長州時代の下関戦争で海外の軍艦に、長州藩の砲台が散散破壊されたという悔しい思い(なお薩摩も同様の思いをしている)をしたからだという説がある。

この固定砲台を、野戦の要塞攻略に転用するというのは革新的な発想だったようだ。
その転換をもたらしたのが、やはり「有坂銃」の有坂であるといわれるが、
土台となるべトンの技術革新(乾くのが早くなった)も大きかったようだ。

いちおう国産の大砲。この砲の設計も有坂だいう。
原型はイタリア製。え?イタリア?マジっすか大丈夫?という人も安心。
そのさらに原型はドイツ製。
ロシアの旅順要塞にはそのドイツ製の28サンチ砲が配備されていた。

正式名称は二十八糎(サンチ)砲。
正式名称のほうが通称より短いのは、なんとも。


●バルチック艦隊

「世界最強の艦隊、バルチック艦隊来る!」

…息がきれた。なので次回。


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【明治日本マメ知識 さらにManiac!】

以下。勢いで書いたけど「よく考えると別にいらん」となったマメ知識。
ますます関係ない話に。
興味のある人はお付き合いください。


●軍神広瀬

旅順閉塞作戦では、
「杉野はいずこ」で知られる軍神、広瀬が生まれる。
閉塞作戦の途中で戦死。
より正確には作戦終了(失敗)後、行方不明になった部下の捜索に戻り、
その折にロシアに発見され、砲撃される。

その直後に軍神として奉られ、日本にブームが起こる。

乃木、東郷といった将軍クラスの軍神はともかく、
広瀬という現場将校で初めの軍神が生まれたのが失敗した作戦だというのは興味深い。

軍神広瀬の誕生劇を軍による本格的な情報操作の例として詳細に分析してた本もあった。

そこで紹介されていたエピソード。

広瀬は作戦前に

「七生報国 一死心堅 再期成功 含笑上船」

という詩を残したらしい。夏目漱石は、この詩に対し、

「拙悪といはんよりむしろ陳套を極めたもの」

「吾々が一六七のとき文天祥(ぶんてんしょう)の正気の歌などにかぶれて、
 ひそかに慷慨家(こうがいか)列伝に編入してもらいたい希望で作ったものと同程度の出来」

だと、さんざんな酷評をしたうえで、このような詩を作るのは軍人の仕事ではないと難じ、

「余は旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑いをはさむを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁する。」

といかにも意味深なことを書いた。
(詩自体が他者の創作である可能性を示唆しているのか?)

立場ある夏目は積極的な反戦主義者ではなかった(と思う)が、
この戦争に対するインテリ層の白けた雰囲気を物語るエピソードではある。
なまじ「学」があると周りが盛り上ってるとき、ちょっと引いちゃってノリが悪くなる。踊りにくくなる。
「怪(け)しからん事ですね。」


●秋山真之(秋山弟)

『坂の上の雲』における「天才ですから」キャラ。

作中ではだらしない、規律守らない、態度悪い、寝てばかりいるけど、「アイツは天才だから」で許される。
実話とは考えにくいけど、海軍では秋山を神聖視する空気もあったとかなんとか。

天才肌で創造的な人物で、同時代の参謀から一目置かれる「キレ者」であったのは確かであったとはおもうが、若干、過大評価されすぎな傾向があるようにも思う。非薩長で「学校養成」の参謀エリート達のシンボルとして、彼らの権威付けに担いだのが「秋山先輩の神話」というのは、ひねくれ過ぎな見方か、な。

司馬も、『坂の上の雲』の中で「天才」「天才」連呼しているが、
その小説内でさえ「げえっ秋山!」、「秋山のワナ」的な「天才的」活躍はない。

閉塞作戦だってすべて失敗している。「軍神広瀬」に誰よりも救われたのはまさに彼かもしれない。

旅順攻略における203高地の重要性にいちはやく気がついたのも、「天才」とされる理由だが、
それは艦隊砲撃のための観測所がほしかった海軍側の希望を単に伝えただけであって、
203高地攻撃が要塞攻略戦におけるベストな選択だったかどうかは疑問が残る。

写真などでみるようにだだっぴろい丘陵が広がる203高地は、どうみても攻撃側の被害が大きく
旅順に戦闘力と周辺砲台が残る限りは維持困難なポイントであった。
このため日本軍はものすごく頑張って塹壕掘り、べトン破壊にものすごい火薬を使った。

そもそも「気のきいたポイントさえ攻撃すれば要塞が倒壊する」といった「着眼点戦術」を激しく批判し、
要塞戦は消耗戦であり「効率的に敵兵を殺傷する戦い」であるとする観点から、
203高地をの攻撃に重点を置かなかった乃木の「愚行」を擁護する本もある。
専門家ではない私個人は「なるほど」と影響をうけまくっているが、
まあ、これはこれでやや強引な気もしないではないので、もし批判とかあれば知りたい。

あと、「百発百中の砲1門は、よく百発一中の砲100門にまさる」という東郷の訓話のもとを作ったのも秋山らしい。

うーん。
「天才」というよりやはり「学校秀才」あるいは「頭の切れる机上の人」なイメージがつきまとう。


なお現在でも、海の秋山神話に批判的な言説はあり、『日本海海戦の時、別に東郷のそばにはいなかったよ』みたいなタイトルだかサブタイトルだかの本があったような。こっちは読んでないけど。



●旅順港内への砲撃と黄海海戦

ちなみに、陸軍の旅順攻撃に先立ち、8月あたまぐらいに海軍の陸戦隊が旅順の東側に砲撃する観測所を設置(港の半分ぐらいまで見渡せたらしい)、砲撃を開始して、艦隊を追い出し、それを迎え撃つ連合艦隊と交戦、黄海海戦となる。ここで敗北したロシア艦隊は、あるものは引き返し、あるものは中立港に逃げ武装解除される。

この黄海開戦で旅順艦隊はほぼ戦闘不能となる。
しかし、そのことを日本側は知ることができなかった。
もし旅順攻撃が純粋に制海権を目的に行われたのだとすれば、それは8月の時点ですでに達成され、それを知らずに行われたその後の総攻撃とおびただしい流血は不必要だったことになる。

この点については、使用不能となったカードをうまく伏せつづけたロシアの手に乗せられたとの見方もできるが、
実はそもそも8月の総攻撃後の陸軍の目標は、艦隊撃破などではなく要塞攻略であったともいわれている。
上記の乃木擁護論も、旅順攻撃の目標が、単なる艦隊撃破ではなく要塞攻略だったということを論拠の一つとしている。

まあ、どっちにしても総攻撃に入る前に、
湾内の半分が見えていた最初の砲撃時点で陸軍と連携して、もっと撃ちまくっておけば、、、。
あるいはちゃんと被害状況を把握できていれば、、、。
あるいはそもそも閉塞作戦において陸軍との連携があれば、、、。
と思わないでもない。まあ素人考えだけど。



●百発百中の砲1門は、よく百発一中の砲100門に勝る。

戦前日本海軍の非合理さを象徴する標語。
海軍学校の試験でも出たとか。

秋山の原案をもとに東郷によって訓話され、
その後に海軍のドグマとして、精神主義、物質軽視主義のよりどころとなる。

後に井上成美によって数学的に反駁される。
その論争は自体、わりと真面目に難しい数式が使われたようだが要約すれば

「百発百中の砲1門と百発一中の砲100門が撃ち合えば、百発百中の砲0門と百発一中の砲99門が残る」。

ということらしい。なるほど。

ただ、秋山の発言の真意は、必ずしも物質軽視ということではなく、
戦闘力=砲門×練度係数
という式について、練度は必ずしも測定可能な数字でないことから、
100発30門など半端な練度では実戦で目算が狂ったときに自信喪失してダメになり
戦闘力=砲門×練度係数の式自体が成立しなくなるから、どうせなら、100発100中の域まで高めんとダメだ。
というそれなりに「合理的」な話であったらしい。
ロシアの弾がほとんど当たらんかった日本海海戦の「完勝」が念頭にあったのだろう。

この発想自体にすでに「精神主義」が見えてはいるが、
しかし、「練習頑張ろうね」という範囲内では別にフツウの話であり、
その後に物質軽視を合理化する意見として用いられるのは
発言者の意図とは別に結論だけ独り歩きした例といえなくもなく、
「百発百中の砲一門の秋山www」と難じてしまうのは酷かもしれない。



●夏目漱石

かつての千円札のおじさん。
ロンドン留学して鬱な気持になって帰ってきて、
正岡子規の勧めで松山に行ったら日本の地方に絶望して帰ってきて
(このあたりの経験が『坊っちゃん』に大成する 坊っちゃんの解説はこちら
東大で採用されたはいいけど、講義がへたくそで、
「前任の小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)のほうがよかった」
(おなじ英文学担当の漱石の代わりに代わりに首を切られたお抱え外人)
とかいわれてますます鬱になって、なんだか勢いづく日本社会にも憂鬱になって
気晴らしにうっ屈した思いをつづったSS集が『吾輩は猫である』として大ヒット。
やがて文章の透明感が高まり、文学的な貫禄がついてますますヒット。
リハビリを歴史的偉業の域にまで高めた人物。

日本の教養に不可欠の文学として、教育界でもやたら高い評価を受け、
中二病患者の独白『こころ』がテキストに取り上げられたり
小学校、中学校の読書感想文などで推薦指定をうける。

しかし、『吾輩は猫である』なんて、いくら猫だからといって
中学生が読んで面白いともおもえないけど、どうなんでしょ?

漱石の一連の著作、特にリハビリ色の強い初期のコミカルな作品は、
どちらかというと中二病発症後に読むべき。
明治の『絶望先生』。
その文脈において、私は好きです。

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