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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)



●オペレーションズ・リサーチ(Operations Research; OR)

 数理的な手法を用いて意思決定を行う手法。ある行動がもたらす結果とその確率を経験から導き出し、それを参考に最も効率的、高確率の結果を得られる選択を求めて行く手法というイメージ。問題の性質に併せていろんな方法が開発されている。「待ち行列」が有名。いわゆる「ゲーム理論」などもこの系譜の方法といえる。第二次世界大戦中のアメリカにおいて著しく飛躍した学問。入門書の例には、潜水艦を撃沈させるのはどの深度で爆雷を爆発させたらいいかを決定する例などが紹介されていた。

 数式を用いるという「科学的」な概観から、戦後社会では一時期かなりもてはやされたようだが、後述する数々の問題や限界もあり、現在のOR技術はかつてほど華やかな分野ではない。ただし、エレベーターの設計、駐車場、電車のダイヤ等、ネットの分野など継続的に大量の事象の処理には、OR的手法は活用されており、「数的な整理に基づく合理的な意思決定」という思想や方法は、むしろ社会の落ち着くべきところに定着したともいえる

 明治軍人がこのような発想を、たとえ萌芽としても、持っていたのかどうかは、私は知らない。「ドクトリン(教義)」や各種の「操典」とかがある以上は、その検証もある程度は統計的かつ数理的になされていたとは思うのだけど。


●オペレーションズ・リサーチの限界

事象を数理的に処理し、効率的な選択肢や制度設計を提示するORの手法は、その科学的な装いから一時期華々しくもてはやされたらしいが、この手法にも現実には様々な限界がある。自分なりに理解すると、以下の3点となる。
 第1に、数値の設定自体は恣意的に行えるため、ORエンジニアは自分の望む結果が出るよう予めモデルを設計できてしまうこと。
 第2に、事象の前提となる「確率」について、予め正確な数値を得ることができないこと。第二次世界大戦期にこの手法が発達した理由は、様々な事象が繰り返し行われ、経験的にかなり精度の高い「確率」が得られる状況であったことが背景にあったと考えられる。
 第3に、上記2つの問題をクリアしたとしても、「目的」そのものはモデルから得られないこと。例えば、ある問題に関して、選択肢別に平均値と分散が予め正確に得られるとして、それが「もっとも望ましい選択肢」を一義的に決定するわけではない。
 通常は、「期待値」がもっとも高い選択肢が望ましいと考えられがちであるが、その考えにも限界がある。有名な例として、例えば倍プッシュするほど有利になる賭けがあるならば、賭けを継続すればするほど期待値は無限に拡大する(勝った時の利得の上昇が勝ち続ける確率の減少を上回る)。しかし、実際上「賭けを無限に継続すること」は「合理的」とは言いがたい(セント・ペテルスブルグの逆説)←うろ覚え。 
 必要となるのは「平均値=期待値」なのか、それとも「最悪の結果を避ける」(マクシミン戦略)か、「勝ったの結果を最大化したいのか」、「分散を最大限おさえたい」のかなどの判断である。こうした選択は、「何を重視するのか」という点に関して、社会的合意や個人的信念の部分に追わざるをえない、より高度な判断であり、どれほど数理が発達しても「政治」「信念」「カン」が果たすべき領域は常に残される。

ある麻雀マンガで、「マニュアルが語る確率論なんて、たいていはずれた能書きなのさ」というような台詞を見たけど、この第2、3の限界を念頭においたものだといえる。私自身はほとんど麻雀打てませんが。

 

 重要なのは、意思決定においては数理的に合理化できる部分とできない部分があること、その相互の限界を十分に知ることである。
この理解がなければ、一方では「信念」「カン」の部分を全否定する歪な数字万能主義が生まれ、一方で数理的根拠を全く無視する精神論、根性論がまかり通ることになる。

 

 

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