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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)



●旅順前哨戦

7月18日、満州軍大山、児玉、伊地知との会談、
7月26日 第三軍、攻撃開始。
7月28日 ロシア軍陣地は2日にわたる抵抗の末、鳳凰山―大孤山まで後退
7月29日 第三軍司令部、営城子まで前進
7月30日 攻囲完成。同日、旅順総攻撃準備を下命令。
8月 3日 旅順包囲体制の完了。


7月29日までの死傷者2836人(ロシア軍1395人)
8月 3日までの死傷者4229人

なお、この一連の戦いで制圧した大孤山からは旅順港内への艦隊が見えており、
艦隊への間接射撃が可能となった。

●黄海海戦

8月10日、旅順沖、黄海で発生した海戦。

7月末からの第3軍の攻撃により、旅順東部、大孤山を確保する。
ここに観測所を設け、海軍陸戦隊が旅順要塞内の艦隊に砲撃を開始、
戦艦に対していくつかの有効打を得る。

かねてから要塞から
「お前のせいで攻められる。出てけ」
といわれていた旅順艦隊はたまらず出港。
ウラジオストックに向かう。

バルチック艦隊がやってくるまえに、旅順艦隊を始末したかった
日本の連合艦隊にとって理想的な展開が訪れる。

待ち構えていた日本艦隊は、旅順艦隊を補足。

連合艦隊は敵前で回頭、後のT字作戦を展開。

しかし、これは大きな空振りとなる。

旅順艦隊はあくまで戦うためではなく、逃げに徹していたので
回頭している間にみすみす逃げられる。

あわてた連合艦隊は、旅順艦隊を猛追。
夕方になってようやく追いつくも、決定打を与えられず、
敵艦を四散させ、逃がしてしまう。

ウラジオストックにこそ敵を通さなかったものの
敵の一部を旅順港にまで取り逃がしてしまう。
(いくつかの船はドイツ領の港に寄港するがそこで武装解除させる)

この戦いの結果、

実際上、旅順艦隊は戦闘不能に近い状態になる。
この後、砲台を解体し、陸上防衛に向ける。
日本軍が攻略を焦る理由は、実際には失われた。

しかし、その実情を察知できなかった日本軍にとっては
敵を再び旅順に取り逃がしたことになり、
ますます旅順攻略を焦ることとなる。

黄海開戦後も艦隊への砲撃は行われていたようだ。

しかし、後の経緯から見れば、大孤山からの視界には死角があり
艦隊はそこに避難していたと考えられる。

児玉は10月ぐらいの時点で、敵の実情を推測し、
「もう艦隊なんて砲撃しても意味ない。弾もったいない」と第三軍に指示している。

しかし、ロシア側は旅順艦隊の健在ぶりと脅威をメディアを通じて
国際社会に喧伝を続けたので、日本側は、そのハッタリに気押されたか、
あるいはそのハッタリが誤りだということを世界に証明せざるをえない、
つまり艦隊を確実に沈めざるをえない状況に追い込まれた。

旅順港に敵の多くの部分を引きつけ、
手持ちの艦隊が張り子になっても、ブラフをかまし、
その後、犠牲を強い、長時間張り付けることを日本軍に強要したという点では
ロシア側の旅順防衛作戦は十分な機能を果たしたといえる。


●日露戦争時の厭戦感情

(おまけ;没カットのリサイクルです)





(コメント返信から)

日露戦争の厭戦感情についていえば、
当時、内部感情はともかく、表面的には圧倒的に熱狂的な戦争支持ムードだったようです。

今日、教科書などで取り上げられる非戦、反戦として
当時は超マイナーな思想であったはずのキリスト教の内村鑑三や
社会主義者の幸徳秋水、
反戦なんだか単なる家族の心配なんだか良く分からない
与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」、
あと『吾輩は猫』の漱石の皮肉程度しか知られてない。

当時の反戦論を見つけるのにそこまで掘り起こす必要があるという点に、
当時の反戦論が一般的ではなかったということを雄弁に物語っているように思います。

児玉らが内務大臣や文部大臣として仕込んできた国民動員体制は万全だったといえるでしょう。
対外的な発信も含め、児玉は情報戦略に関しては、今日でいう電力会社なみの剛腕であったといえます。
この時代、昭和のような露骨な統制体制が取られてなかったことを考えるとなおさらです。

なお、厭戦ムードを完全に抑え込んだことが後の日比谷焼打ち事件の遠因の一つとなる。
彼らは、この戦争は勝っており、日本軍はまだまだ戦えると信じており、
その立場から講和条件を弱腰だと批判していた。






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