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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)

●西南戦争
西郷どんを大将として1877年(明治10年)に発生した鹿児島県の反乱。
不平士族の新政府への不満が爆発したものとして理解されている。
官軍側の大将は、山縣有朋。

主に熊本で戦われた。

維新の立役者、薩摩藩の最期の戦いであり、
同時に「鎮台」といわれた官軍が直面した初の本格的な戦争である。

●乃木希典の軍旗事件
歩兵第14連隊を率いていた乃木希典は、熊本城北、植木あたりで急襲を受け、
軍旗を奪われる事件があった。軍旗は天皇から下賜されるものであったため、
大変な恥と考えられた。後に乃木希典は、明治天皇の崩御にあたり、殉死するが
そこで遺された死の理由は、日露戦争のあれこれではなく、この軍旗事件であったという。
確か。そうだったようにおもう。

●西南戦争における児玉の活躍
熊本城の守備隊に参加。
この籠城軍には土佐藩の谷干城のほか、
のちに作戦の神様とよばれ、日清戦争を指導した川上操六もいた。

なお、熊本城は築城の名手加藤清正の作品であり、
薩摩軍の攻撃によく耐えたことから
薩摩軍、西郷は、「加藤清正」に敗れたともいわれる。

しかし、天守閣は戦闘開始直前の失火により失われている。
この失火については、近代戦において天守閣は無用で、むしろ敵軍の砲撃で
破壊されることは士気の大きな喪失につながるとかんがえたため
官軍自ら火を放ったとか、そのアイデアは児玉源太郎によるものだとかいう
話もあるらしいが、どうなんでしょう?


●児玉源太郎の乃木訪問
上記襲撃で負傷した乃木を、
熊本城守備隊の参謀を務めていた児玉源太郎が見舞いにおとづれている。
一説には、乃木の自殺を止めるために派遣されたとかなんとか。
二人の友情エピソードとして有名。




●西南戦争における山縣

西南戦争にあたり、山縣は薩摩軍大将の西郷に対して
「井目(せいもく)も及ばず」という趣旨の弱音をもらしたと伝えられている。
囲碁で九子(星の全てに置く)ぐらいの力量差があるということだ。

実際の戦争は、官軍の圧勝だったため、
維新の英雄、先輩に対する敬意であろう。

●西南戦争の呪いと陸軍

ただ、薩摩軍は部隊レベルの戦闘力、中隊長の質において
圧倒的に強かったとされる。

戦術的に現場の長が強くて、
戦略的にはめちゃくちゃというのは
後の日本軍を想起させる特質であり、
昭和に西南戦争の呪いが蘇ったのかと錯覚させるほどである。

司馬遼太郎は『翔ぶが如く』はその類似性を意図的に強調していたように記憶している。

●西南戦争と天皇

薩摩軍の強さは、部隊長の戦闘力その他にあるが、
ひとつに西郷のカリスマ性もあったとされている。

薩摩軍は西郷のために死ぬことができたが
鎮台としてできたばかりの政府軍には死を賭して戦うべき理由は見出し難かった。
士気の差は歴然であったろう。

NHKの特集かなんかでは、この教訓から山縣は大将の重要性に気がつき
軍の大将としての天皇の権威を積極的に打ち出していくことになる(軍装が増えるとか)
らしい。

逆に言うと、それまでの陸軍、おそらく日本において
(素朴な信仰の対象としてはともかく)
昭和に見られるような天皇崇拝の傾向や権威には乏しかったとも推測できる。

●御前会議と大本営の電信
11月の御前会議後、大本営から満州軍に改めて電信が送付されている。
その内容はほとんど同じ(要塞攻略も大事だけれどまず203高地をとれ)、
満州軍の回答もほぼ同じ(虻蜂取らず)だったという。
このあたりで、明治帝が「イワオ、従わず」みたいな言葉を
日記に残してたとかなんとか(うろおぼえ

●日露戦争改変におけるデータの捏造

小説『天辺の椅子』では、日露戦争の開戦にあたって、陸軍は陛下にロシア鉄道の輸送力を過少に見積もる報告をしたことになっている。フィクションであるし、出所はわからない。もしこれが本当なら、今日の裁量労働制や日誌どころでない捏造である。

●天皇陛下の決定権

いずれにせよ、明治憲法下で、陛下にどの程度の意思決定の権限と能力があったのかは、よくわかってない(ように思う)。後に問題となる「天皇機関説」は、軍の内部の運用実態としては半ば常識であったように思われる、というか複雑な近代国家だとそうならざるをえない…。

●西南戦争時の乃木の階級

少佐。児玉と同じ。
戦役中に中佐。

天皇に頻繁に拝謁できる立場だったかどうかは不明。

なおwikiなどによるとこの時期の乃木はけっこう放蕩家であったようである。
「静かで珍重な武人」としての乃木はドイツ留学から。

●「惜しまざる ますらをの旗 九重(ここのへ)に 惜しみて惑ふ のぞみもがな」

命を惜しまない有志たちの旗が 宮城に何重にもたなびいている(それ自体は惜しいものではないが)
しかし、それを惜しみあたふたしている乃木希典こそ、私が求めている忠義の士である

九重は宮城の意、幾重にもたなびく旗の情景と掛詞になっている
のぞみもまた、のぞむことと乃木希典の「希」が掛けてある

明治帝の御製…

…というのはまったくの嘘で、今回適当につくったもの
たぶん、和歌としての出来は最低ランク。

●「アーコロシテハ ドモナラヌ」

こちらは記録に残る明治帝のお言葉。
御前会議で、乃木更迭が話題になった時、口にしたとされる(あるいは日記だったか?)

乃木更迭論については、明治帝が
「更迭すれば乃木は死ぬだろう」
というようなことをいってカバったということが小説『坂の上の雲』などを通じて
広く知られているが、これには根拠がないようである。

●明治帝の御製の和歌

第二回攻撃が失敗した9月ぐらいのうた

・こらは皆 軍(いくさ)のにはに出ではてて 翁やひとり 山田もるらむ

・年へなば 国のちからとなりぬべき 人をおほくも失ひにけり

・たたかひに 身をすつる人 多きかな 老いたる親を家にのこして

などが新聞紙上に発表され、国民はみな、田畠を耕すのに勤しんだという

(半藤一利『日露戦争2』)

なんとも国策くさい感じのする歌とエピソードではあるが、
「兵の死」、それによる農村や家の負担がおおらかに歌われていること。
旅順の死人数に驚くというのは
天皇陛下に代弁させるほど、
国民共通の感情だったのだろう。

反戦ソングとして有名な(異論あり)
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の歌もまた、
こうした風潮の中で歌われたものと思われる。


●乃木更迭論

第三軍が旅順港的にてこづっている時、大本営と満州軍では
伊地知更迭論、そして乃木更迭論が議論されていた。

その議論をすすめていたのは、
大本営の長岡外史と、そして意外なことに児玉源太郎だったようである。

もっとも更迭といっても、攻撃の途中で首をすげ替えるというものではなく
攻撃終了後、少なくとも1月のことであったとされる。
乃木を朝鮮軍司令と入れ替えて、それなりに顔を立てつつ
前線から外すというアイデアが児玉から提案されている。

現場にはかなりのプレッシャーであっただろう。
第三回総攻撃時、203高地陥落前には、
かけつけた児玉に「かえないでくれ、かえないでくれ」と
懇願する乃木の姿が目撃されている。

乃木更迭論をストップさせたのは、これまた意外なことに
満州軍の松川参謀であったといわれている。

旅順が陥落した1月、いよいよ児玉が更迭論を上申する直前に
「前は賛成したけれど、やっぱり旅順は勝ったんだし、
 司令官更迭はよくなくないですか」
と伝え、児玉を思いとどまらせたという。意外。

半藤氏の説によれば、
大山巌が強く反対し、それ以降は満州軍でこの話題はでなかったともいわれているが。
(上の話と合わせると創作くさい)

その後の、奉天会戦の展開まで考えると、
ここで更迭しなかったことはわりと重要。
勝敗定かならぬ戦いの結果、ロシア軍が敗北
と認定された理由の一つはクロパトキンの首が飛んだことによる。

なお、軍司令官の更迭は、日清戦争の第一軍、山縣有朋が
大本営の川上操六と田村恰与造らによって(病を理由に)呼び戻された
という前例がある。

●おまけ(ボツ原稿供養…すいません)
…当初はこれらのことも踏まえてもっと、だらだら、ぐだぐだ描くつもりでした…


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