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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)

●天長節

11月3日 明治天皇誕生日を祝ってた。みんなでお祝いした。
日露戦争時は伊藤博文も演説かまして万歳参照したとかなんとか。
いまは文化の日。

●乃木邸投石事件

明治37年 旅順攻略に手間取る第三軍への怒りから
10月頃に乃木邸へ投石事件があったようだ。確か『坂の上の雲』でも取り上げられていた。
半藤一利『日露戦争』では、確か乃木自身はこの事件を当時知らなかっという。

●ノギノギする

旅順が落ちない焦りから、
「ノロノロする」という意味で「ノギノギする」という言葉が用いられたとかなんとか。
もしかしたら現代だったら流行語大賞にノミネートされてたかも。
この種のネーミングセンスが絶望的なのは古今変わらない模様ではある

●批判1)第三軍司令部の現場視察

第三軍司令部への批判の一つとして
司令部に引きこもって油売っていて前線の現場をみてなかったというのがある。
『悲しき帝国陸軍』では第一回攻撃の途中で、到底堀の長さにとどかない梯子が司令部から送られてきて、
「参謀は現場見てない!」と兵が憤ったとかなんとか。
『坂の上の雲』もその見方が強調されていたように思う。

初見時、筆者も第三軍司令部の腐った性根に大きく憤ったものだが、
考えてみれば戦闘中に軍団司令部参謀が前線に姿を表したらダメだと思う。
なお12月には旅順防衛側の中心人物コンドラチェンコが28サンチ砲の砲撃で殺害されている。
捕虜からの情報により現場視察のタイミングを狙って撃ったという説もある。

なお『坂の上の雲』では、この後第三回攻撃時にかけつけた児玉がこの点でも癇癪を爆発させ、
あわてて参謀たちが現場に赴くことになるというシーンがあるらしく(うろおぼえ)、
彼らの手を涙ながらにとった乃木と
それを冷ややかに見守る児玉という描写があるらしいが
桑原『乃木希典と日露戦争の真実』によれば、このとき現場に視察にいったのは
(到着して日の浅い、そして失態を犯した)第七師団の参謀だったらしく、司令部参謀ではなかったらしい

それにしても「上は現場を知らない。見てない」というのは現場の定番の愚痴だとおもう。
日本、に限られることかどうかわからないが、
トップが現場とか庶民を知ることの重要性はさかんに強調されるが
個人的にはトップはあまり現場に通じすぎないというのも大事じゃないかと思ってる。

●批判2)第三軍司令部が後方にあるということ

第三軍司令部への批判の二つ目

司令部が後ろにありすぎる、というもの。
うろおぼえだけれど『坂の上の雲』では、
伊地知以下参謀たちが砲弾の音がうるさいいやだ
とゴネて部下思いの乃木がそのとおりにしたとかなんとか。

これも上記、「上は現場をみない」の感情に訴える批判の一種。
ただ、実際的にも西方203高地方面への指導が遅れるという場面はあったようだ。
ただ、これは戦線が広がりすぎ、策源地からの兵力、物資投入がどうしても一泊遅れる
という問題があるようにも思われる。
実際、第三軍司令部が置かれた柳樹房は東正面の最前線から7.2キロメートルの距離にある。

(鉄道沿いの場所である)
この距離をどう解釈するかは判断が分かれるが、当時は9キロぐらいの射程をもつカノン砲が
あったことを考えるとその射程内に常設司令部を置くのは無理な気がする(素人判断

あと、wikiによれば、第一回総攻撃時など、総攻撃の際にはさらに近い鳳凰山南東に繰り出したり
団山子に指揮所を設けていたとか(出所は『歴史街道』)、
あとより肉薄した地点に司令部をおいた第11師団は射撃により参謀二人を失ったとかなんとか。

司令部の場所問題については、桑原『乃木希典と日露戦争の真実』で積極的に反論がなされている。
その後、第三回総攻撃の203高地攻撃の際には、司令所を第七師団と同じ高崎山まで移してらしい。


なお同書の指摘では、この司令部の位置問題については必ずしも後世の創作ではなく
同時代においてもすでに存在しており、第三軍もそれを受けて対応してるようだ。
満州軍は第三回攻撃のクライマックス、203高地攻撃最中
12月1日に第三軍宛に「予備隊とか高等司令部の場所遠すぎ、前へでろ」と訓令を発し、
第三軍の日誌には「同意できないが、やれやれ、面倒だからいうこときいとこ」(という趣旨)の記録が残ってるらしい。
(これが後世の批判の根拠になった模様か?)

同書は、このとき児玉不在であったことから(第三軍に向けて移動中)、この訓令は
児玉でも大山でもなく、伊地知と仲の悪い井口あたりの(松川もか?)嫌がらせだと推測している。
ちょっと無理あるかもしれない。

そういえば最近読んだ本(長南『新日露陸戦史』かゲームジャーナルか)だと、
伊地知は児玉の前任者、田村恰与造とも仲が悪く、事実上左遷されたという(後任が松川)
この因縁を考えると満州軍司令部の松川などとも仲が悪かったのかなとかなんとか。

●批判3)砲弾を請求しすぎ

伊地知が大本営側から受けが悪かったとされる理由の一つとして
「大本営に砲弾を催促しすぎ。苦戦のいいわけとして砲弾不足に不満を漏らしていた」
というものがある。

塹壕と坑道作戦によるいわゆる「正攻法」を採用した第三軍司令部は
肉弾よりは火薬を多く求めたようである(第七師団派遣は屈辱と感じる向きもあった)。

これに対して、大本営、山縣有朋から第三軍宛の手紙の記録が残っている。
うろおぼえだけれど
「現地からの引き上げ組から聞いた話だけれども、
 第三軍は弾薬不足を苦戦の理由にあげているようだが、
 要求はちゃんと満たしてるはずだし、国民全体で作ってるはずだし、
 だいたい元々の計画では足りると言ってたじゃないか。
 あんま、そんなこというと、軍の威信に関わるし貴様ら本人のためにもならんぞ。
 もっとも聞いた話だから、ほんまかどうかしらんけど」
というような内容のものが山縣名で出されている。

「伝聞」の形で伝わったとされる伊地知の砲弾への愚痴は、
おそらく大本営では話題になったのであろう。

現場の砲弾要求は、自然な、好意的に言えば至極まっとうなものであるが
大前提として「作戦方針に大きな食い違いがある」わけだから、
大本営からすれば
「いうことを聞かないのに要求だけする」ということになり、
そこをもう少し飛躍を挟めば
「いうことを聞きさえすれば(203高地を攻撃すれば)、
 そもそもそんな砲弾いらんだろ」
「砲弾を要求するのは無能だからだ」
という理屈にたどり着く。

この飛躍を描いて、砲弾要求を第三軍無能説に結びつけた司馬遼太郎の筆力は
まさに「翔ぶが如く」、読ませる力がとても強い。


なお、この訓令(?)の日付は、司馬遼太郎では第三回攻撃前に披露されているが
桑原『真実』によれば、203高地陥落後の12月20日頃に出されてる(山縣側の記録類?)。
このことが、同書が「203高地陥落=旅順陥落ではない」と主張する根拠の一つにも位置付けている。
(203高地後もなおギスギスしてたし苦戦もあった)

なお、この砲弾消費量については坂の上の雲でも度々話題となっている。
国内では職工を引き抜きあってフル増産体制だったようだ。


結局のところ、旅順線は、火薬量の制約との戦いであったと言える。
そしてそれは誰も事前には予見できてなかった。

●批判4)日程がオカルト

少年時代、「坂の上の雲」を読んで最も印象的だったエピソードの一つ。
攻撃日程を、縁起を担いで決定しているというもの。

こんな単調な攻撃日程だと、
「敵に読まれる」と「そろそろだと防衛準備される」と難じた上で、
第三軍側の論理として
「26日は錦州攻略のめでたい日」とか「2で割れるから旅順も落ちる」
とかの理屈が挿話として挟まれる(この返答についてはいまだ出所不明?私には)。

愚昧な第三軍司令部がついにオカルトを振りかざしている、
なんてこった、と強烈に記憶に残っている。

「この程度の頭脳が戦争をしているのである。兵も死ぬだろう」

という文言は確かここで用いられていたか(うろおぼえ)

しかし、これも長じて考えてみるとなかなかに言いがかりである。

 7月26日 第1回予備攻撃
 8月19日 第1回総攻撃
 9月19日 第2回予備攻撃
10月26日 第2回総攻撃
11月26日 第3回総攻撃

19日攻撃が2回、26日攻撃が3回目
かっきり1ヶ月開けてるケースが2回

ぶっちゃけていえば、
1)別にそれほど明確な法則性があるわけではない。
(小説で数字とかでると読み飛ばすタイプ)
2)だいたい弾薬の制約で攻撃日程は決まってたはず
(カラの弾薬タンクがなんとか埋まるのをみてから攻撃)
3)仮に日程が読まれたからといってたぶん攻撃に影響ない
(基本予備攻撃からはじまるし、塹壕の様子見れば攻撃タイミング分かる。
 いわゆる日程による「奇襲性」は皆無の戦い)

こんなやりとりが当時実際にあったとは考えにくいが
もし本当にあったら、パワハラというほかない。

以下推測だが
日程に規則性が出てしまったのは、弾薬の都合だけじゃなく
作戦指導側のスケジュールが「月単位」で認識されていたのではないか
たとえば「○月までに陥落」とか、「来月中にとか」
このことが、締め切りギリギリかつ総攻撃が2、3日かかる、あと余裕を見て1、2日
などの事情で26日に集中したのではないかと。
あてずっぽうだけれど。

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