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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)

●第1回総攻撃後の参謀たち

大きな失敗のあとには、責任問題で紛糾するのが組織の常。
前哨戦の被害もあり、当然ながら、第三軍には非難が集中した。
そして、彼らに早期の攻撃をせかしたものたちは、どうか。
7月末に第三軍司令部を訪れ、つかみ合いの喧嘩までして攻撃をせかした井口省吾(松川と同類項キャラ)は、
次のような趣旨の内容を語ったという。
「何もこんなバカ正直に攻撃しろとはオレは言ってねえ。もっと西側を奇襲しろとかどういうことを(略)。」

大人は責任なんて取らない。

 

●旅順攻略戦における論点

第1回総攻撃時点では、旅順の攻撃方法について次のような状況であった。

大本営;西側攻撃支持(事前の演習では西側有利)
第三軍;東側攻撃支持(実際に現地を見て、西側は困難と判断)
満州軍;東側攻撃支持(現場の第三軍の判断を支持)

なお、この時点では、まだ「艦隊撃滅の為の203高地攻略」という論点は
まだ明確な争点となっていない。

 

●遼陽会戦

旅順で8月下旬に第1回総攻撃が失敗に終わった直後、北方戦線では日本軍主力とロシア軍主力がぶつかりあう遼陽会戦が開かれている10万規模の軍隊がぶつかり合う日露戦争初の本格的会戦。結果的に日本が劣勢の兵力という状況にも関わらず、敵を押し切り、ロシア軍は奉天付近まで撤退した。ただし、被害は日本のほうが大きく、ロシア側も「戦略的撤退」として国際的に宣言したため(また実際、撤退が整然としていたため)、どちらも自らの勝利を主張していた。

 

●銃剣をスコップに持ち替えた

第1回旅順総攻撃で大きな被害を受けた第3軍は、9月1日より塹壕および坑道の掘削作業を開始する。
今日の目から見れば、第一次世界大戦で発生した大きな戦術上の転換をわずか一週間で実行したといえる。
当時のイギリスの新聞か何かも、この転換を「銃剣をスコップに持ち替え」と、同盟国日本の戦意がいまだ挫けていない象徴として紹介していた、というような文章を何かの本で見かけた。

●ヴォーバン

17世紀フランス人貴族で築城術の大家。
五稜郭も、彼の設計思想に従ったものという。

旅順戦では、第1回総攻撃の後、彼の書物があわてて
とりよせられたという逸話が残っている。

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