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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切かかわりがありません。



【明治日本マメ知識】(敬称略)

(※並行世界であるマンガ本編とは何ら関係ありません。読まなくても本編の理解には何の差支えもありません。)
(※wiki読んだという程度の知識、ソースはほとんどネット(しかも特定しません)。で書いてます。話半分で読んでください)

(※くだらない私見はいってます。適当に読み流しorツッコミくださいませ。)
(※誤り等ありましたら、がんがんご指摘お願いします。いろいろ教えてもらえると描いてるかいがあります)

●第2回総攻撃

10月26日から5日間にわたり行われた総攻撃。
日本では9月に行われたものを前哨戦、こちらを総攻撃とされる。
ロシア側では、9月攻撃を第2回と数えるため、こちらが第3回目の攻撃となる。

●皇国軍の砲撃

旅順攻囲戦を通じ、砲撃はその精度と連携を高めていったという。
各隊で散発的に撃っていたものを、少なくとも各師団単位で
情報を共有し、連携させていった結果と思われる。

●第二回総攻撃、満州軍司令部とのやりとり。

第二回総攻撃の以前に、満州軍司令部児玉参謀長と第三軍司令部との方針の相違があったことが知られている。

ただし、それは、『坂の上の雲』で示唆されるような、203高地攻撃の是非をめぐるものではない。
(満州軍は、東方正面攻撃の強固な支持者で、海軍の要請による艦隊攻撃についても
(すでに艦隊は機能を失っているという判断から) 弾の無駄だといっている。)

第3軍参謀大庭の日記等によれば、
第3軍の作戦計画は、東方正面の全方面について攻勢をしかけ、望台方面の全面制圧を意図していたが、
児玉は、その案に不安を覚え、攻勢点を集中して段階的に作戦をしかけてはどうかと提案している。

これに対し、第3軍は、部分的に砲塁を攻略しても望台および他の砲塁へ戦線を展開することが困難である
また、攻撃を段階的に行う場合でも予備砲撃はやはり全方面に散布する必要があり、弾薬が不足すること
などを理由に、この提案を却下している。

第3軍内では、この提案を受けて、二段階攻撃案なども議論されたようだが、多数の支持は得られなかった。

大庭の日記によれば、バルチック艦隊が迫り、今回の攻撃で決着をつけねばという焦りもあったようである。


●満州軍と大本営の権限

各軍団長は、天皇から直接任命される親職である。
旅順方面の攻撃について、満州軍も大本営も、少なくとも各参謀クラス(児玉を含む)では
具体的な作戦内容に直接介入する権限は持っていなかった。
(同様に、軍団は各師団の具体的な行動について十分に掌握できてなかったともいわれている)

ただ、大本営は人事権、編成権を握っている。
第二回総攻撃前の時点で、
明治天皇は大本営会議にて第3軍を満州軍から外し直下の軍としてはどうかと下問したといわれており、
また後に第3軍首脳の更迭論が取りざたされることから、第二回総攻撃の時点において、
この種のプレッシャーは相当かけられていたものと推測される。

●第二回総攻撃の結果
10月26日から10月30日の総攻撃の結果。
無名のP堡塁を落としたのみで、他の主要作戦目標の制圧はことごとく成らなかった。
制圧した堡塁は、その指揮者一戸の名を取り、一戸堡塁と名付けられた。
(明治天皇によるもの?失敗のムードを糊塗する一種の戦意発揚措置と思われる)

大本営の意向を完全に遮断した上で、地理的な成果はほぼ挙げられなかった。
後世の様々な脚色のもととなる、第3軍の同時代的な悪評(本国から見た)は、
このとき確立されたのではないかと思われる。(第1回目の被害の大きさと併せ)

ただし、ロシア軍側への影響等に目を向けると、実はこの戦闘は旅順戦全体にかかる
大きなターニングポイントとなっていた。それは、次回に述べたい。

●28サンチ砲の威力
この第2回総攻撃が、あの有名な28サンチ榴弾砲を投入した最初の戦いである。
その効果はどうだったか。今回書く予定でしたが、次回にします。

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